「生き方と死に方、どっちが大切だと思う?」
我が親愛なる友人にこの質問をしてみたところ、ずいぶんと迷っている様子だった。

というのは、先の現代社会の授業で尊厳死について教師が言っていた、ある言葉が問いの理由だった。
『たとえば難病などで当人にはもう意識はなく、家族の意思によって植物人間状態で生かされている人がいたとき。薬などを使って人間らしく死なせてあげようというのが、尊厳死です』と。

私が気になったのは、『人間らしく』という表現だった。教師は、少なくとも二回ほどその文言を繰り返していたことを覚えている。

難病により、本来死んでいるはずの人間を処置でぎりぎりで生かしているならば、その処置をやめて『人間らしく』死なせてやるべきだ、というのが真意だろう。

しかし、医学の進歩によって、特に日本では本来死んでもおかしくない病気を完治させて生きている人などごまんといる。
完治せずとも、難病を患いながら必死で生きることにしがみついている人たちだってたくさんいる。
そういった人たちは『人間らしく』生きているとは言えないのだろうか。
私には、どうしてもそうは思えない。

そこで私は、「薬によって植物人間状態の人が死ぬのが『人間らしく』死ぬということなんですか?」と質問してみた。

そこまで深く考えていなかったのであろう、教師はかなりうろたえた様子だった。「ここで私の意見を述べるのは適切ではない」としか返ってこなかった。彼はおそらく政治家に向いている。

『生き方と死に方、どっちが大切だと思う?』と訊かれて、即答できる人は少ないだろう。
だが、それでいい。
大事なのは、生き方と死に方を天秤にかけて、ほとんどの人は迷うということだ。

考えてみてほしい。
生きている時間と死ぬ瞬間を比べたら、圧倒的に生きている時間のほうが長い。
往生に際しての時間を含めたとしても、ほとんどの場合は生きているときに経験する大切な時間の総量のほうがずっと多いだろう。

加えて、エピキュロスの弁を借りるなら、自分の死というものは、自分で体験することはできない。
体感しようとしたときにはもう死んでいて、死んだら経験も何もないからである。

ゆえに、理論立てて考えるならば、即答で死に方よりも生き方のほうが大切、となるはずだ。
それでも人は迷う。
理詰めでは生き方のほうが重要視できても、死に方にこだわる人がいても何の違和感もないだろう。

それはきっと、死という概念には論理を超えた神秘的な何かがあるからだろう。
正確には、死の前に理屈を並べることはできても、頭でそれらすべてを屁理屈だと判断してしまう節がある。

さて、あなたにとっては生き方と死に方、どちらのほうが大切だろうか。

教師の授業に飽いた私は、教科書の上に文庫本を広げた。