人間とて、機械と同じように、様々な元素が結びついて機能している存在だ。
そこで、様々な物質を組み合わせ、人間と全く同じ構造を造り上げたとしよう。
ただし、生きているわけではないので、動いたりはしない。
さて、生きていないならば、これは『死体』と呼べるのだろうか。

今日、学校帰りに自転車を漕いでいると、ふとこんな疑問が浮かんできた。
どうやら川沿いの道は、人に死について考えさせる効果があるらしい。皆さんも、死と向き合いたくなったら、川沿いの道をサイクリングしてみてはいかがだろうか。

さて、今はテスト期間であり、ことに明日は物理と数学という苦手教科目白押しなので、本来ならば対策をせねばならないのだが、どうしてもこれが頭から離れず居眠りもできないため、こうして掘り下げてみることにする。ゆえに私は決して悪くないので、そんな目で読まないでもらいたい。だってほんとにわかんないんだもん……

また、ここに私が書き記すことは、あくまで私の意見であり解釈であるので、これが最適解とは限らない。むしろ私は別の視点からの考察も見てみたい。
いきなり私の思考実験の私の考えを聞かされては、影響を受ける可能性も高いため、まずはご自分で一度考えてみてから読むことを強くお勧めする。


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生きていないなら、死体なのか。
この疑問に即答することは難しい。なぜなら、肝心な「何が」生きていないのかが、明らかにされていないからだ。
ならばなぜ、あえて「何が」を記さなかったかと言えば、その定義もまた、難しいからだ。

生きていない「人間の身体」ならば、死体なのか。
これならばいささかは答えやすい。おそらく、死体とするのが適切だろう。

ただ、考えてみてほしい。
人工的に造り出したその身体は、黙しているだけで構造は人間であるが、本当に「人間の」身体といえるだろうか?

実はこの思考実験は、単なる高校生の現実逃避ではなく、「人間とは何か」という問いにまで発展する奥が深いものなのだ。

目を閉じて、想像してみてほしい。
無抵抗に、体重を預けてくる体。
青白く、冷たくなった手。
いっさい緊張することのない筋肉。
緩み切って、安らかな表情。

あなたは何もない部屋で一人、「それ」と対峙する。
それは本当の人間の死体となんら変わらない。ただひとつ、「人の手で造られた」ということを除いては。

しかし、その一点がとても重要なのだ。
たとえあなたが「それ」を前に何を感じ、思ったとしても、それははじめから生きてなどいない、精巧な人形に過ぎない。

はじめから生きてなどいない。

当たり前のことであるが、この世に存在する全ての人間は、生きている。
また、今は亡き人々も、かつては例外なく生きていたのだ。
なぜこんなことをわざわざ確認したのかといえば、言うまでもなくともとても大切な事実だ。

私が与える「人間とは何か」への答えは、「一度でも『生きる』ということをした存在」である。
ゆえに『死体』とは「かつて生きていた」ということを前提としたものであるため、今回の思考実験に登場する「それ」は、人間でもないし、死体でもない。

では、そもそも「『生きる』とは何か」……という問いに発展していくのだが、ここで造られた『人工死体』は、はじめから「死体」として造り出されたもので、『生き』ていたことが一度もないのは自明だろう。

はじめから「死体」として造られたのにもかかわらず、『死体』としての条件を満たせていない。
なんとも皮肉的な欠陥ではないか。
あるいは、皮肉を好む意地汚い私の考えらしい思考実験ともいえよう。

しかし、これは理屈のうえでの、いわゆる机上の空論というものであって、先ほど示したように、実際に何もない部屋で「それ」と二人きり……いや、一人一つきりとなれば、本物の死体に相対した時と同じ感情を抱く人が多いのではないだろうか。

たとえそれが人の手によって生み出されたことを完全に理解していたとしても、死者を前に抱く特別な感情——それはたとえば、畏敬や恐怖、あるいは祈りであろうか——が同じように湧き上がってくる人は決して珍しくないだろう。

それはきっと、その人の割り切れない不器用さが問題なのではない。いやむしろ、その不器用さの根源ともいえる場所に答えがある。

まず、なぜ本物の死体でもないのに、そんな感情を抱くのか。ひとつ単純な答えがある。

似ているからだ。

ここで考える人工死体とは、文字通り「人の手で造られた」という点以外は死体(あえて“天然死体”とでも言ってみたら多方面からお目玉を食らったりするのだろうか)と全く同じであり、見た目の差はゼロだ。もっとも、『以外は』といっても、その『以外』のせいで死体としての条件をみごとに満たせていないのだが。

しかし、それは糸口に過ぎない。もっと深く掘り下げてみよう。
似ていることがなんだというのか。どれだけ似ていても、それは「死体ではない」と断言できる明確な相違点がある。
人間ではなく、私の定義を適用させた機械がそれを見たならば、「死体ではない」あるいは「人間ではない」と判断するまでだろう。……そもそも機械に抱く『感情』があるかは別として。

似ているから、同じ感情を抱く。
その背景にあるのは、人間の共感能力ではないかと私は思う。
傷を抱えている人を見ると、自分も心が痛む。おいしそうなものを食べている人を見ると、自分も食べたいと思い、おなかがすいてくる。

きっと、その「共感する力」というものは、人間に本能的に植え付けられているものなのだろう。
効率的に食糧を得ている人がいると、自分や家族もそれを試してみる。
同じことをしている人々が、同じ場所に住むようになる。
すると、多くの知恵が多くの人々に共有され、豊かになっていく。
より大きなことを共同でするようになり、文化を創り上げていく。

こうして、地球という広大にして狭小なカーストにおいて、小さく弱い存在だった人間は、今日に至るまでめざましい発展を遂げてきた。
ヒトがこの地球に登場してから、八割以上の時間をこそこそ過ごしていただけだったのに、たかだか2,000年程度で、逆に地球を支配し、宇宙にまでも手を伸ばし始めているのだ。
その基盤にあるものが、やはりこの「共感」というキーワードなのであろう。

ところが、そうした共感能力というものは、決してよいことばかりではない。
輝かしく光が差すところには、必ず大きく深い闇が影を落とす。

「魔女狩り」という言葉をご存じだろうか。


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魔女狩り(まじょがり、witch-hunt)は、魔女とされた被疑者に対する訴追裁判刑罰、あるいは法的手続を経ない私刑等の一連の迫害を指す。魔術を使ったと疑われる者を裁いたり制裁を加えることは古代から行われていた。ヨーロッパ中世末の15世紀には、悪魔と契約してキリスト教社会の破壊を企む背教者という新種の「魔女」の概念が生まれるとともに、最初の大規模な魔女裁判が興った。そして初期近代の16世紀後半から17世紀にかけて魔女熱狂とも大迫害時代とも呼ばれる魔女裁判の最盛期が到来した。現代では、歴史上の魔女狩りの事例の多くは無知による社会不安から発生した集団ヒステリー現象であったと考えられている。-Wikipedia


たまにファンタジーやホラー作品で目にする程度だろうから、架空の出来事と思われがちかもしれないが、
「魔術を使ったり悪魔と契約したと疑われるものを迫害した」というのは歴とした史実である。
いや、史実というのは少々誤りを含む表現であった。これは一部地域で現在でも行われていることだからだ。

もちろん、魔女や魔術などが存在しえないことは、現代の科学が証明している。科学が正しいとするならば、そんなものは存在しないのに無辜の人々が犠牲になったということになる。

科学が正しいとするなら、とわざわざ含みを持たせた言い方にするのは、現代において科学が正しいと信じられているのと同じように、一昔前までは主にキリスト教の考え方が絶対とされていたのであり、これから先も絶対に科学が正しさの基準になる保証などないからだ。

話を戻そう。
いくらなんでも頭がおかしいとしか思えないこの魔女狩り、実はふたを開けてみると、そもそも頭があったのかすら疑問に思われる。


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魔女狩りの根拠とされたのは旧約聖書出エジプト記」22章18節の「女呪術師を生かしておいてはならない」 (מְכַשֵּׁפָה לֹא תְחַיֶּה [məḵaššēṕāh lō’ təḥayyeh]) という記述である[11]。ここで言う女呪術師、原語メハシェファ (מְכַשֵּׁפָה) とは、「魔法を掛ける」「魅惑する」という意味の動詞キシェフ (כִּשֵּׁף [kiššēṕ]) と語根を同じくする女性名詞である[12]。この「魔術を行う女性」というほどの曖昧な表現が、ヴルガータでは「妖術師」 (maleficos)、欽定訳聖書1611年)では「魔女」 (witch) という言葉に訳され、当時の人々のイメージに合わせて書き換えられた。このため、この部分が魔女狩りの聖書における根拠になりうると考えられた。


魔女として訴えられた者には、町や村、もしくはその近郊に住む女性で、貧しく教養がない、あるいは友人が少ないといった特徴を持つものが多かったようである。近代に入ってもカトリック・プロテスタントを問わず、宗教界の権威者たちは非キリスト教的な思想を嫌った。それは旧約聖書にあるヘブライ人たちの多神論への攻撃にその論拠を求めたものであった。-Wikipedia


聖書とは、二つの意味でこれほど便利な書物はないと思う。
ひとつは、“the book”の一言で表現できること。
そしてもうひとつは、どれだけ恣意的でも解釈次第でなんでも正当化できることだ。

離乳食並みにかみ砕いていうと、

「あいつさー、なんか育ち悪い癖に調子乗ってね?なんか聖書の教えに従わんらしいし。」

「だよねーまじわかる……貧乏なうえにあの素晴らしい教えがわからんとか、まじで救えんよね笑」

「てかさてかさ、知ってる?実はあいつ魔女らしいよ。」

「え、やっぱり?私も前から怪しいと思ってたんだよね~……」

「……“ヤ”っちゃわない?

「「「うぇーーーい!!」」」


的なノリで行われていたのである。
女子中学生が休み時間に学校のトイレ前でしている会話だろうか。
女子中学生について専門的に知りたい人がいれば、中世ヨーロッパについて調べてみるといいかもしれない。

キリスト教は、当時ヨーロッパで絶対的な権力を持っており、またその教えも絶対とされていた。
言い換えるなら、最多くの人に「共感」され共有されていたのだ。
そのために非キリスト教的価値観を持つ人を異常視したり、あるいは個人的に嫌いな人間を聖書にかこつけて迫害していたのだ。
ちょうど、現代において科学を認めない人が異端扱いされるように。

私は、ここに真の共感能力の闇、人間の恐ろしさというものが表れているのではないかと思う。
人間は常に人に合わせ、集団を形成し、和を乱すものを許さなかった。
そして、『人に合わせる』という考え方は、やがて「集団がより大きな集団に合わせる」というものになっていった。
なぜなら、その方がより多くの知恵を共有できるし、文化的にも技術的にも発展が望めるからだ。

しかし同時に、『和を乱すものを許さない』というのも肥大化した。
多数派が正しい。多数派に合わせよう。多数派がすべてだ。
どんどんエスカレートしていき、やがてマイノリティを認めない社会を形成するに至ってしまった。

現在では魔女狩りほどのことは珍しいが、やはりLGBTQQIAAPPO2S(性的マイノリティ)発達障害、知的障害、または身体障害をもつ人辺境の少数部族など、やはり完全に隔たりなく扱われているとは言い難い人々はたくさんいる。

それでも、人間の共感能力が完全な汚点ではないというのは、すでに述べたとおりである。
マイノリティの人々にも「共感」し、「マイノリティ」と意識することすらなく生活できる社会を形作っていく必要があるのは、他ならぬこの時代を担う私たちである。


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さて、ここまでの旅は、
あくまで私の考える「解釈」の世界にすぎない。
もちろん私としては最善の答えを探したつもりだが、他の視点からの解釈も非常に興味がある。
ぜひ、みなさんも考えて考えて、考え抜いてみてほしい。大いに価値のある問題だと思う。
もちろん、テストに支障がない程度に、だが。

では、私は三角比と格闘してくることにしよう。
いやまじで無理……