まだ子供だもんね。この味は、大人になればわかるよ。

きっと、この言葉をかけられたことのある人は多いだろう。
まだ食べ物に関する知識が少なく、おそれなどから慣れない食べ物に拒絶反応を示したり、単に味蕾の数が年齢とともに変わり、食の好みも変遷していくことなどから、歳上の人間がかける言葉だ。

私はどうしようもなく、この言葉が嫌いだ。

そもそも「大人の味」というのは、生まれたときには10,000個ほどあった味蕾が歳を重ねるごとに減る(一般的な成人男性の場合5,000個程度)ために味覚が鈍り、苦みや辛みの強い食事を好むようになることもある、という仕組みだ。

感覚が鈍くなることを「大人になる」とは、なんともポジティブで、それでいてセンスがあり、最高に見苦しい。

とはいっても、まだ食のことをよく知らず、本人からすれば得体のしれないものを出されて拒否しているのだから、「大人になればわかる」というのは、離乳食をとりはじめたような乳幼児に対しては適切ともいえるのかもしれない。

しかしそうでない場合、この言葉は「私は『大人』だからこの味を理解する能力を有するが、あなたは『子供』なのでその能力がない」となるが、それは「私は『白人』なので高い知能を有するが、あなたは『黒人』なので動物的でどんくさい」という主張と軌を一にするものではなかろうか。


私はスイートチリソースの風味が苦手だというのを、父にこう言われたので「そういう表現は嫌いだ」と主張すると、「そんなことで嫌とか言うな。これは当たり前のことだ」と言われた。
本来私はアスペルガー症候群の影響で偏食があり、克服はしてきているものの、知覚過敏があるため、まだまだ敏感に反応してしまう結果、理解できない味というものもある。

単に味蕾が少なくなって鈍感になっただけなのに「理解できる大人」を自称し、敏感がゆえに苦手という人たちを小ばかにし、「お前も大人になればわかる」という価値観の押し付けのおまけ付きだ。
これを差別として何と言おうか。

「細かいことを言うな」「世間では当たり前のことだ」「そうして過剰に反応することが一番の差別ではないのか」という浅い反論は容易に想像できるので、先にお応えしておこう。

世間では当たり前のことでも、苦しんでいる人は確かにいる。その「当たり前」が一番の障壁になっているケースも少なくない。当たり前でも、細かいことでも、まずは意見を出し、声を上げていかねばすべては始まらない。
加えて、過剰反応というのは、すでに理解がいきわたっているのに誤解から摘発してしまうことだ。
これに関しては全くと言っていいほどに理解されていないし、先述の通り一番初めに声を上げなければ何も変わらないのだ。

世界をよりよくしていくために、そして、そんな大それたことでなくとも、あなたの大切な人が、不快な思いをせず生きていくために。
試されているのは、当たり前を疑い、理解を示すことではないだろうか。