誕生日。
この言葉を聞いて、負のイメージを抱く人はそういないだろう。
友人や家族に祝福され、贈り物をもらい、自分もまた感謝を伝える。このイメージを共有できる人は多いはずだ。

というのも、今日7月25日は、私という人間(私が人間であるかについての議論は、今は措く)の誕生日なのだ。
憂鬱ということはない。16歳を迎えて嬉しいのは正直な気持ちだ。周りへの感謝も、口に出しこそはなかなかしないがしっかりある。

しかし、私はこの日を迎えるたびに思うのだ。私は本当に、次の歳を迎えてもよいほど成長しているのか、と。
愚かなことだ。
『これくらい成長したならば、歳をとってもよい』などという基準は存在しない。存在してはいけない。
そもそも何を以て「成長」とするのか。それでも拭えない。
それは焦燥感。それは息苦しさ。あるいは、理想に追いつかない自分に対する、渇望のようなものだろうか。

私は、紛うことなき自信家だ。
自らの思考力、記憶力、発想力に大きな自負を抱いている。高いプライドに押しつぶされないよう、自分が努力と思えるものも積み重ねている。

ところが、私はそれ以上に、自分自身が嫌いだ。
『雨の降る朝』に詳しく述べたが、私は決して、満たされることはない。
どれだけ磨いても、どれだけ結果を出しても、満たされない。自分すら満足させられない自分が嫌いであり、自分を認められない自分が嫌いだ。
そんな自己愛と自己嫌悪の大きな矛盾を抱えながら、私は生きている。
そして、私が感じている苦しさの答えは、きっとこれだろう。

いつからだったか。物心のついた頃には、すでにこの悩みを抱えていた。
ともすれば、生まれてからずっと抱いているものかもしれない。
そしてこれからもずっと、心に染みついて離れないのだろう。

だが、それでいい。
端から見れば、ただの不幸な王子さま気取りのナルシストであろう。
そうして私を嘲笑っている人間の方が、満たされているのだろう。

それで構わない。むしろ上等なくらいだ。
誰も認識せざるとも、私は走り続ける。
幸せというものには甘んじない。
幸せを求める人を、否定することもしない。

自分が幸福になれない憐れな人間であることもわかっている。
解っているからこそ、本気で振り切って走ることができる。
幸せに浸る私など、私が生まれたその日に殺した。

今日はそんな私の十六周忌であり、16歳の誕生日だ。
今までお世話になり、これからもご迷惑をおかけするであろう家族、先生方、そして友人たち。
これから関わることになるであろう人々。
その全てに最上級の感謝を表するとともに、不肖私をこれからもお願いしたい。
不器用だが、この言葉に嘘はない。


下覗き
抱く恐怖が
我が自信

令和二年 文月二十五日