一年前の今日、何を考えていたか。ふと、そんなことを考えるときがある。
覚えているはずはないし、そんな人はきっといないのだろう。

その日、私は独り悩み詰めて泣いていたのかもしれない。
その日、私は大切な人を喪い、悲嘆に暮れていたのかもしれない。

それでも結局、一年経てばこの通りだ。目の前の問題に向き合うことに精いっぱいで、大きな悩みも、次第に些末なものへと追いやられていく。

今日、三浦春馬さんが亡くなったと報道された。自殺とみられているそうだ。
私は、特に彼を追いかけているわけではなかった。それでも好きか嫌いかで言えば好きな俳優さんであったし、驚いたことには間違いない。

SNSで彼についてつぶやいている人は数多くいた。もちろんその中には彼を敬愛している人もいたのだろうが、大半は私のような人間だったのではなかろうか。

そのような人間は、あるいは私自身は、彼のことを、一年後の今日には覚えているのだろうか。
今日が「一年前の今日」となったその日、私は何を考えて生きているのだろうか。

「忙殺」という言葉がある。
忙しさに殺されるくらい、やるべきことに追われている状況を指す。
きっと、太古の日本人も私と同じであったのではなかろうか。一年前のことどころか、何かに悩むひますらないくらい、忙しさに追われている。そんな様子が不思議と想像できるのだ。見たことも無いのに。

以前、『生きている間に発生する諸問題は、構造的に生きながら解決できぬものにはなり得ない。それなのに自殺してしまう人間は浅はかだ』と書いた。
実は、その『解決』の部分。それは、なにも人間関係のしがらみを解決するとか、重い借金を一気に解決するとか、そんなものでなくてもいいのではないだろうかと考えているのだ。

逃避。
それはなんの解決にもつながらないとみなされがちであるが、私がそうしたいかは別として、私はそうは思わない。

恋人を亡くし、悲しみに暮れている男がいたとしよう。
その場合の問題は、『恋人を亡くしたこと』と思われがちであるが、そうではない。『恋人を亡くして悲しんでいる心』なのだ。
恋人を喪ったという事実。それ自体はなんでもないのだ。あくまで大切な人と死に別れたことに対し、悲しむ男の心がすべてなのだ。

つまり、それを何とも思わないようになってしまえば、恋人を亡くそうとどうでもよく、悩まずに生
きられるということになる。

そんなのは人間ではない、と思う人があるかもしれない。実際そうとも言えるだろう。
恋人を亡くすことはこの上なくかなしいことであるが、それをどうとも思わない人間になりたいと
思うだろうか。

そこで『逃避』という選択肢を提示しよう。
悲しいことは、存分に悲しんでいい。
泣きたいなら、声をからして泣けばいい。
しかしそれだけでは体も心も疲れるだけだ。

そんなに悲しんだのなら、全てを忘れられるくらい楽しんで、悩みから解放される時間があってもいい
ではないか。
四六時中、大切な人の死と言う重い重い事実と向き合わなくてもいいではないか。
そこで逃避することは、なにも悪くない。適度に逃避することで、乗り越える。人間とはそういうものだ。

お葬式という文化が浸透した理由を、ご存じだろうか。
言うまでもなく、お葬式を催す遺族は忙しい。いろいろな人へ連絡を取らなければならないし、おおきな
お金も動くことになる。
実は、それなのだ。
忙しくて忙しくて、家族が悲嘆に暮れる暇もないように。まさに『忙殺』と言った感じだろう。
それは大昔の人類が生み出した、逃避の機会でもあるのだ。

悩みたいなら、徹底的に悩めばいい。しかし疲れた後は、めいっぱいに逃避してしまおう。
わざと多く予定を入れるのもいいかもしれない。わざと人と会う機会を増やしてもいいだろう。

どうせ殺されるのなら、悩みではなく忙しさに。
ただ行き場もわからず俯いていた、一年前の私へ捧げる。